大阪ゴルフクラブ

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倶楽部の歴史  ―開場〜閉鎖へ―戦時下時代

過去の写真1 昭和12年 大阪ゴルフクラブ創立
大阪ゴルフクラブの始まりは昭和12年。寺田甚吉、高畑誠一をはじめとする6名の有志が中心となって大阪ゴルフ倶楽部を設立、南海鉄道沿線の大阪府泉南郡淡輪深日の海岸・丘陵地帯24万坪(約80万平方メートル)を買収し、全長6,700ヤード、パー72のチャンピオンシップ・コースの建設に着手した。

昭和13年 18H完成、全面開場
コースの設計は、当時ヨーロッパから帰国したばかりの上田治氏。ゴルフ場の建設用地は、土質は良好だったものの、海岸に接した複雑な地形のために工事は困難を極めた。さらに当時、ゴルフ場を含めたこの一帯が軍の由良要塞地帯だった影響で、測量や開墾、樹木の伐採、写真撮影など、全て軍の許可が必要だったことなど、コース工事は困難をかさねながらも、昭和13年7月25日ようやく完成し、晴れの開場をむかえることができた。 完成した「大阪ゴルフ倶楽部深日淡輪コース」は、関東の川奈富士コースとともに、関西唯一のシーサイドコース・チャンピオンシップコースとなり、国内でもっとも難しいコースの一つとして注目を浴びた。


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昭和14年 関西プロ選手権を開催
権威あるコースとして高い評価を受けた大阪ゴルフ倶楽部最初のビッグ競技会として、関西プロ選手権競技が昭和14年9月19日から4日間、盛大に行われた。決勝では戸田藤一郎と宮本留吉の間で優勝が争われ、戸田が大阪ゴルフ倶楽部で行われたビッグゲームのチャンピオン第1号となった。この年の春と秋には東久邇宮・朝香宮両殿下がお越しになるなど、明るいニュースが続いたが、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発、国内でも米の配給制がスタートするなど、暗い動きも次第に活発となっていった。

昔の写真3昭和15年〜16年 30歳以下のゴルフ禁止となる
昭和15年8月、当コースが日本ゴルフ協会からチャンピオンシップ・コースとして認定され、前年に続いて朝香宮殿下をはじめ宮様方がご来場されるなど、倶楽部にとっては嬉しい出来事が続いたが、戦時体制の強化に伴い、30歳以下のゴルフが禁止となった。そして時期を同じくして日・独・伊3国同盟が締結、翌年の12月には日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃によって、ついに太平洋戦争の火ぶたが切られた。

昭和19年 軍による接収、ゴルフ場閉鎖
3年目を迎えた太平洋戦争は、日米の国力の差が戦況に反映し、米軍を主力とする連合軍の反攻は猛烈を極めた。こうした情勢の中で昭和19年3月18日、当ゴルフ場に対しても接収の要請がもたらされた。ゴルフ場は閉鎖され、軍に明け渡すこととなった。開場から閉鎖までの営業日数は2,052日で、この間の来場者数は会員3万5,622名、ビジター6,356名にのぼり、1日平均20名であった。


昭和20年〜21年 終戦、接収の解除
昭和20年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によって、大きな犠牲を払わされた戦争が終わり、同月28日に接収解除の通達があった。しかし、返還されたゴルフ場の土地建物は大阪府に移管されることとなる。これは、この年に発令された第一次農地改革によって、ゴルフ場も農地と見なされ、その利用が拘束されたためと見られる。

昭和28年 待望の18Hオープン
会員や地元関係者から「ゴルフ場の早期復活」の要望が高まってきた昭和26年、会社首脳部や寺田甚吉理事長ら関係者が協議してゴルフ場の復活を決意し、用地の確保・復旧工事に着手した。しかし、国によって敷地の使用が厳しく制限されている状況の中、ゴルフ場復活への道は困難を極めた。そして昭和28年。ようやく待望の全面開場を迎えることにいたった。

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